たつやの株主優待&配当金・分配金で まったりライフ!

株主優待をまったり楽しんでいます ☆。.:*:・'゜★

ブログランキング参加  応援お願いします😊 m(_ _)m  ⇒   ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村     人気ブログランキング

※【本ページには広告やプロモーションが含まれています】

教員という職業(教員だった父の他界に思うこと/教え子の導師に送られ/喪主を務めて)

教員という職業(教員だった父の他界に思うこと/教え子の導師に送られ/喪主を務めて)

 

ド田舎で育った管理人の思うことを羅列しています、そして自慢話も含まれているので、適宜スルーしてお読みください

 

 

教員という職業

自分の父は、公務員で中学、高校教員 教育一筋に勤め、60歳の公務員退職後も私立高校の教員として勤めている

最終的には45年ほど教育一筋に携わった

 

昭和の時代に、ド田舎では、教員という仕事は誇れる仕事、尊敬される仕事だ

周りに農家が多いので、先生となると一目置かれる存在

とても憧れる職業だ

 

そんな父親を大尊敬していた

 

そして自分も当然に親と同じに教員になるべきものと考えていた

 

なお、自分の母も教員で、親戚関係もほぼ教員、妹も教員になり職場結婚で教員一族の旦那と結婚しているので、現在では更に親族関係は教員が大変多くなっている

 

そのような環境で育ったのである意味では、教員をリスペクトしたバイアスが掛かった意見になる

それでもやっぱり田舎では教員は尊敬され易い

 

 

父親について

教員一筋の父親は、とにかく優しかった

怒られた記憶がなく、好きにやらせてくれたし、欲しいものは買ってくれた

親の期待に応えることが第一と考えていたので怒られるようなことはしていなかったというのも事実

 

父は数学教師だが、趣味は多彩で、絵画と書道が得意

油絵と水彩画の両方の作品があるが、近所の飲食店等からも先生の絵をお店に飾らせて欲しいとリクエストされ、今でも飾られているし、いくつかの賞も取っている

書道も色々な作品展に出展していたし、今でも掛け軸などの作品が残っている

 

高校生までは実家で暮らしていたので、父の教え子が、近くまで来たと自宅を訪ねてきたり、父と一緒に外出すると街中で会う人が、父に「先生元気ですか?」と声をかけてくることもあった

父が街中で、あいさつを交わすのを尊敬のまなざしで見ていた

先生って、卒業後も特別な存在なんだと憧れていた

 

田舎だとクラス同窓会で先生も招待することもあるし、先生は特別だ~

自分達も数年前に中学の担任の先生を呼んで同窓会をやったし、、、

 

そんな父親は大尊敬に値する人物だった

 

また山歩きが好きで、ハイキング仲間と山歩きを楽しんでいた

そんな父が永眠したのは、「山の日」

母親は、山が好きだった父は、やっぱり「山の日」にお迎えがきたと、、、

やっぱり、人生はそのようにできている、、、

 

 

父親の葬儀について

 

葬儀屋さんのプランナーの方は母親の教え子

葬儀屋さんが何人か関わってくれたが、そのうち最初にお会いしたプランナーさんは、何と母親の教え子だった

これは偶然でビックリ!

母親は、小さいときは〇〇くんは、△△だったと懐かしそうに、何度も話してくれた

そしてこんな偶然なことがあるんだと驚いて何度も繰り返した

 

 

ご住職さんは父親の教え子(教え子の導師に送られて)

ご住職さんが最近代わられたので、初めて連絡したが、父の名前を伝えたら、先生の教え子ですと言われて、これもにはもっとビックリ

 

ご住職さんはもう70歳程度だが、中学の時に父親が数学の先生だったらしい

ちょっと怖い印象があったが、クラスの友達は全然怖い先生ではなく良い先生と話していたと教えてくれた

父親の偉大さが分かる

 

 

田舎とはいえ、人口数万人規模だし、近隣の市町村を加えると地域的には広い

そんな広範囲の中で、父親の葬儀に直接係わってれる人達に、父や母との特別な因果が、、

こんなことが起きるんだ・・・

 

そして田舎では地域紙に訃報を掲載するが、新聞を見て連絡をくれた関係者や弔問者も多い

父親は退職してから既に、30年以上経過しており、教え子も若くても50歳以上のシニアばかりなので、大昔の先生のことを覚えてくれているとは感慨深い

 

教員という職業はやっぱりすごい、改めて大尊敬だし、素晴らしい!!

 

 

そして、母親が若い頃に職場で一緒だった、昔の先生方もたくさん弔問してくれ、母親と懐かしそうに話していた

 

また妹は嫁に出てしまったが、現役の先生なので地域の先生方がたくさん弔問してくれた

妹の旦那さんも校長を務めて退職後は、教育委員会で未だ仕事をしているので、教育委員会の方々もたくさん弔問してくれた

 

教育関係者がたくさん集まってくれた

感謝、感謝、感謝

 

 

喪主を務めて

人生の中で喪主を務める機会は少ないと思う

最近は家族葬も多いが、通常通りに通夜、葬儀を行う場合はかなり大変だ

 

葬儀屋さんとの打ち合わせからスタートし、導師さまの日程、火葬場や葬儀ホールの空き状況、友引は日程から除外しなければならず、全ての都合を確認して日程を決め、日程が決まってからは本客への連絡&出欠確認、生花等を出してくれる方の確認、引物や料理の選定や数の確認、そしてあいさつの準備等、とにかく準備だけでもかなり神経を使う

 

当日はお越しいただいた弔問客へのお礼やエスコート、あいさつ等でも緊張する

田舎なので通夜と葬儀が終わった翌日は、お手伝いをしてくれた近所の方々へ返礼品を届けにお礼訪問

 

市役所への手続き、金融機関への手続き、土地、建物の相続手続き、年金の支払い停止、公共料金の引き去り変更手続き等、、、しなければならないことが盛沢山

 

実家に帰省してやらなければならないことが多く、日程的にはかなり厳しい

香典を多目に出していただいた方へは、当日の当日の引物のお礼だけでなく、後日半返しの手続きも行うため、弔問者リスト作成を作成して発注作業も

 

その後は導師さまと49日の法要の日程調整、法要の準備をすぐに始めなければならない

 

一段落つくには数か月を要する

 

 

 

 

***** ここからは おまけ(適宜スルーしてお読みください)  *****

子供の頃の考え方

自分として両親が教員なので、親に恥をかかせてはならなかった

地元では〇〇先生の息子は優秀だという評判が立たなければならないから

なので小学校の時から、優等生であることが求められ、子供ながらに学力優秀、真面目でなければならないと親の恥にならないように、品行方正を心がけていた

 

幸いにして、子供時代は背も高く目立ち、学力はトップ3に入ることを目標にしていたので、学級委員や、児童会会長、中学では生徒会長等は、当然やらなければならかったし、推薦されたので頑張って期待に応えるように務めた

 

また運動も短距離が得意だったので、中学時代は野球部ではあったが、陸上競技にも特別参加して100mでは11秒台、走り幅跳びでは6mクラス、中学3年の時に県体大会の代表にも選定されるなど個人的に目立っていたし、学校でも良い意味で目立っていたので、親に対しては親孝行できたと思っている

 

 

また昭和の時代には健康優良児(けんこうゆうりょうじ)という制度があった

健康優良児(けんこうゆうりょうじ)とは:

身長と体重が平均以上で、学習成績と運動能力共に優れ性格明朗な少年として、朝日新聞社・文部省・都道府県教育委員会が合同で表彰した者である

上記条件を満たす小学校6年生の男女1名を各学校が推薦し、陸上競技場で徒競走などの運動能力をテストし、医師の健康診断と教師の面接を経て選定した

優越感や劣等感を招くと批判する意見が目立ち、個人の表彰は1978年に、学校表彰は1996年にそれぞれ廃止された

 

自分はこの条件には当てはまっていたので、学校から推薦され、健康優良児として表彰もされ、親にも喜んでもらえたし、子供の頃は本当に親孝行できたと思っている

 

 

高校時代から就職まで

 

ド田舎では、株式を上場しているような企業は存在しないので、所謂優秀な人が就職する場合は、公務員の選択肢一択になる

つまり教員か、市役所や町役場などを目指す

 

同級生で地元進学校から東京へ出て、大卒後に地元にUターン就職している連中は、教員が多いし、市役所等も、地元の進学校出身者で占められている

しかも校長先生クラスも、あいつが校長になったんだと意外なヤツがなっていたり、比較的優秀な友達は教員をやっている

 

自分も、教員になって自宅から通えるようにして実家に戻ることが望まれていた

教員採用試験に通れば、親族が教員だらけなので、そのうちに地元に引っ張ってもらえることが確約されていた

 

そんな中で、妹は親の期待に応えて教員になり教員の旦那と結婚して共働き、地元から近い地域で幸せに暮らしている

ところが長男である自分は、親の期待を裏切り、地元の教員にならずに東京に出てしまい、Uターンしていない

 

事の始まりは、大学受験で地元国立大学の教育学部を第一志望としていたが、大学への推薦枠が未だ余っていて、その大学は東京の某有名私立大学への推薦枠だった

地元国立大学より偏差値もかなり上だし自力で受験したら受からない、知名度も高い、就職にも有利なので、それじゃ推薦枠に入れてもらおうと考え、推薦してもらった(合格率約2倍の推薦試験を突破)

そこから教員への軌道を外れた

 

大学入学後に教育課程を取ろうと思っていたが、理系だと本来のスケジュールが忙しく、教育課程の履修には5年かかることが判明

考えた末に教育課程は諦めた

大学入学までは、〇〇先生の息子は〇〇大学に入ったということで面目は保ったが、教育課程を取らずに親の期待を裏切った

 

そうすると次に、親孝行するには、有名な会社に就職して、地元で〇〇先生の息子は〇〇会社に入ったと、田舎でも、誰もが知る大企業に就職しなければならない

 

そして、就職の時には、誰でも知っている会社を目指して、募集枠に教授推薦で、名前が有名な総合電機メーカーに入れてもらった(就職試験を受けて合格)

 

幸いにして、院卒ではないのに総合研究所(周りは博士か院卒ばかりで学部卒は少ない)に配属されたので、親としてみれば、近所や親戚には息子は〇〇会社の研究所に勤めていると紹介して、皆さんが納得してくれるので安心してくれたようだ

 

田舎の場合は、就職先の知名度が必要なので一応は成功

実際は一緒に暮らしていないので親孝行はできていないが、親に心配をかけることなく過ごしてきたと思う

 

なお、田舎では株式投資やFIRE等という言葉は使えないし、退職後も65歳までは地道に働いてがんばっていなければならない

 

近所で変な噂が立たないように、頑張って真面目に働いていて面目を保つように

もう少しだけ頑張って働いてみようと思う

 

 

f:id:tatsuya-kabuyu:20230820163341j:image

 

f:id:tatsuya-kabuyu:20230820163742j:image

PVアクセスランキング にほんブログ村

プライバシーポリシー & お問い合わせ